名越切通
名越切通(なごえきりどおし)
中世に想いを馳せる狭く・険しい山路。国指定史跡
住所 逗子市小坪・鎌倉市名越
入口 亀が丘団地口・小坪階段口(以上小坪)。他にも法性寺口・ハイランド口・大井町口がある
行き方 亀が丘団地口:亀が丘団地循環バス「緑ヶ丘入口」下車徒歩5分。
小坪階段口:亀が丘団地循環バス「緑ヶ丘入口」下車徒歩8分/鎌倉駅から「緑ヶ丘入口行き」バス終点「緑ヶ丘入口」下車徒歩5分
(*同じ停留所名だが異なる路線の別のバス停)
見どころ 第1~第3切通・まんだら堂やぐら群(以上小坪)。他にも石廟(鎌倉市指定文化財)・お猿畑の大切岸。展望広場は三カ所あり
総面積 約11万㎡
備考 国の指定史跡名勝天然記念物。昭和41(1966)年指定、56(1981)、58(1983)年、平成20・21(2008・09)年に追加指定
問合わせ 046-873-1111(代表)逗子市教育委員会教育部社会教育課文化財保護係
HP http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syakyou/newbunkazai/nagoe/nagoe.html

コラム
歴史書に見る「名越切通し」

名越切通しの歴史史料初登場は、『吾妻鏡』天福元(1233)年八月十八日条。

「名越坂」として記されている。

「十八日 早旦、武州、爲奉幣于江嶋明神、出給之處、前濱有死人、是被殺害者也不遂神拜、直參御所給 即召評定衆被經沙汰先令御家人等、武藏大路、西濱、名越坂、大倉、横大路已下、固方々途路有犯科者 否、可捜求其内家家由、被仰下之間、諸人奔走、而越邊、或男洗直垂袖、其滴血也成恠、岩平左衛門尉生虜之、相具參御所、推問之刻、所犯之條、無所遁是博奕人也仍殊可停止其業之由、下知〈云云〉」

「この日の早朝、北条泰時は江ノ島明神に参詣する途中、前浜に殺害された屍体があるので、そのまま御所へ引き返した。そして評定衆を召して直ちに犯人を捕らえるように沙汰し、これによって武藤大路・西浜・名越坂・大倉・横大路以下の要路を塞ぎ捜索した。そのうち、「名越辺」で一人の男が血の付いた直垂を洗っている。岩手?左衛門尉がこれを生捕り、御所で推問すると、殺害を白状した。この男は賭博人であった」

また、名越坂ではないが、『吾妻鏡』建永元(1204)年二月四日条には、源実朝が雪見のため、名越山辺に来たという記述などもみられる。

出典(対訳):逗子市ホームページより

名越トンネル上の山路「名越切通し」は、鎌倉時代に切り拓かれた鎌倉への陸路「鎌倉七口」の一つで、往時は鎌倉と三浦を小坪経由で結ぶ要路だった。切通の機能は、第一に交通だが、さらに防衛機能も併せ持っていた。「切る、通し」のその名が示すように、山の尾根を切り拓いて通した路は、狭く、険しい。戦時の大軍の侵攻を阻むことを考えてのことである。古くは、「なごし」すなわち「難越」と呼ばれていたとも伝わる。うべなるかな。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死後、執権・北条氏は、源氏譜代の武将たち(畠山・和田・比企氏)を次々に滅ぼしていくが、なかでも、三浦半島全域に勢力を伸ばす三浦氏を相当警戒していたことは想像に難くない。ただし、従来防衛遺構だとされてきた「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)」(*「切岸」とは、敵の侵入を防ぐ人工的な崖)は、平成14年度の発掘調査により、三浦氏対策の構造物ではなく石切り場であったことが確認されている。

以来、明治16(1883)年に名越新道が開通するまで、名越切通しは鎌倉逗子間の山越えに利用されてきた。おそらく、庶民は悪路に泣かされてきたことだろう。が、その険しさ狭さが、逆に今では魅力となった。くねくねと続く変化に富んだ狭隘な山路は歩いているだけで愉しうえに、往時もしのべる興味深さも加わるとなれば、何度でも歩いてみたくなるハイキングコースのひとつといえるだろう。

崖道
柱
左:亀が丘団地循環バス「緑ヶ丘入口」バス停裏の崖道 右:「国指定史跡 名越切通」と白字で書かれた角柱

では、さっそく、小坪側から名越切通へ。

亀が丘団地循環バス「緑ヶ丘入口」バス停のすぐ背後すぐ、やや急な崖路がせり上がっている。春先には桜の花びらの舞うこの崖道を、ちょっと息を切らせながら登ること数分、高台の亀が丘団地へと至る。ここから崖淵に立つ家並みを左手に道なりに進んでいくと、突き当たり手前に階段が見えてくる。この階段を降り切ったところが「風麺」で、いましがた降りたバス停から崖下に沿って右手に回り込んでいったあたり。ちょっと息切れ「崖登り」をパスしたいならば、こちらから登ってくればいいのだが、まあ、ここもけっこう長い階段で、こちらはこちらで、ちょっと息が切れます。

話を崖上に戻そう。その階段を過ぎて最初の「止まれ」の赤い交通標識を左折すれば、すぐ先が亀が丘団地口。前方に、「国指定史跡 名越切通」と白字で書かれた角柱の標識が見えるはず。いよいよ名越切通の始まりだ。ここより一歩踏み出せば、まさに別世界。日常の音はフェードアウトしてゆき、五感に感じるのは、夏でもひやりとした風の感触、土と草木の匂い、姿の見えぬ鳥の囀り。そして目の前には、急峻な崖と張り出す岩の間を伸びてゆく路が。狭い、確かに、狭い。

多少なりとも、名越切通の歴史的背景を知っていれば、中世の世界へとタイムスリップしたような気分に浸れもしよう。住宅街からわずか数分ぶん遠のいただけなのに。

上からの眺め
シダ
根っこ
上:切通を上から眺める 下左:陽射しが遮られ羊歯類も生き生き 下右:崖縁でたくましく育った根に圧倒される
まんだら堂
モクレン
遠景
上:まんだら堂 下左:春を告げる槿 下右:対面の亀が丘団地上から望む「まんだら堂」

歩くこと数分で、すぐ、名越切通し最大の第1切通にさしかかる。この切通最大崖高は、約10メートル。いちばん狭まった地点の幅は90センチメートルほどだそうだ。左手に階段が作られていて、崖上から見下ろせるようになっている。これは登るしかあるまい。

さらに、数分。右手に見えてきた段々をあがると、中世の遺構・まんだら堂やぐら群である。やぐら群は、鎌倉と鎌倉と縁の深い地域・寺院独特の珍しい墳墓だが、まとまったを良好な状態で見ることのできるところは他にあまりなく、機会があったらぜひ見ておきたい歴史的遺構である(限定公開。春3月上・中旬、初夏4月下旬~6月初め、秋10月下旬」~12月中旬の月曜および土日祝日)。

まんだら堂やぐら群

「やぐら」は、垂直の崖に掘った四角い横穴で、内部に、納骨した五輪の塔を並べた供養の場。大きさは、2m四方程度のものが多い。現在、150以上のやぐらが確認されている。やぐらの前は、尾根にやぐらを掘った時の残土で谷を埋めて造成した平場。ここで火葬が行われたと思われる跡も確認されている(遺構は、劣化を防ぐため発掘調査後また埋め戻されている)。平成18年度の発掘調査では、斬首されたと考えられるヒト(女性)の頭蓋骨1個が埋められた楕円形の土坑も見つかった。いったいどのようなお方がいかなる事情で非業の最期を迎えたものか。

造営は、はじめは僧侶や武士、後には力をつけた商工業者によると考えられている。造営期間は、鎌倉時代後半(13世紀末頃)から室町時代の中頃(ほぼ15世紀)とされる。歴史文献初出は文禄3(1594)年の『検地帳』だそうだが、その時代には、まんだら堂の名は畠の地名となっているとか。まだまだ、不明の部分も多く、歴史の謎である。

多くの人々が生まれ、それぞれの生を生き、やがて等しく死を迎える。ところどころに謎を隠したまま繰り返されていく悠久の歴史の壮大さに圧倒され、今この時卑小な自分がこの場にいることの不思議を、ひしひしと感じてしまった。

まんだら堂手前の山道を下っていけば、小坪階段口、鎌倉行バスの始点「緑ヶ丘入り口」バス停へと至る。

山道を下らず、さらにハイキングルートをたどれば、路は、第2切通、第3切通へと続く。ここで、鎌倉側の大町口へ行くか、さらにハイキングルートをたどり法性寺口へでるか、あるいは、「お猿畠の大切岸」を経てハイランド口まで足を延ばすか。選択肢はさまざまである。

標識
小坪階段口
左:標識。右:小坪階段口。

法性寺

….

お猿畠の大切岸

大高さ3〜10mの切り立った崖が、尾根に沿って800m以上にわたって連続する遺構。「お猿畠」は、鎌倉を追われた日蓮が、3匹の白猿に助けられたという伝承による。