戦国時代の合戦場となった住吉城

源頼朝によって樹立され、北条得宗家によって受け継がれてきた鎌倉幕府は、元弘三年/正慶二年(1333年)に新田義貞の攻撃によって北条高時が自害し、140年あまりの歴史を閉じました。新田義貞の軍勢は巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻めかかり、ついに稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ乱入したと言います。この戦闘に小坪一帯が巻き込まれたという記録は残っていませんが、後の戦国時代になると小坪でも合戦が行われました。

三浦半島を拠点とする三浦氏の家督を継いだ道寸(1451ないし1453〜1516年)は、永生七年(1510年)になると相模国中央部にまで支配を広げていました。同じ頃、室町幕府政所執事を世襲する京都伊勢氏の出身で、後に北条早雲と呼ばれる戦国武将が台頭し、小田原城を占拠して関東制圧を狙っていました。三浦道寸と北条早雲が武力衝突したのは永生九年(1512年)8月のこと、道寸が拠点としていた岡崎城(現在の平塚市、伊勢原市)に早雲が攻撃を仕掛け、はじめは籠城していた道寸方は城外に打って出て合戦を挑んだものの敗北。城を捨てた道寸は三浦郡へ後退し、住吉城に移って軍勢を整えます。

この住吉城とは、現在の正覚寺(住吉山悟真院正覚寺。飯島岬住吉谷に建てられた浄土宗の寺)のある一帯にかつて存在した山城で、飯島崎の断崖とその背後の丘陵や谷津を含んだ地域とされています。

住吉城に篭って徹底抗戦の構えを見せた道寸に対して、早雲は玉縄城(鎌倉の北方)を拠点に定めて、住吉城攻撃の準備を進めます。翌永生十年一月に道寸は玉縄城の攻撃を試みるも、早雲を撃退するには至らず、その後道寸は住吉城の防衛を弟の道香に任せ、本拠の三崎城へ移ります。そして同年七月、早雲軍の攻撃を受けた道香は戦いに敗れて住吉城を捨て、延命寺(逗子市)にて自害しました。延命寺には「三浦道香墓」が残っています。そして三崎城に籠城していた道寸も永生十三年七月には戦死。名門三浦一族は滅亡しました。

©佐野絵里子(Sano Eriko)