小坪坂の合戦

小坪という地名が日本史に登場するのは源平合戦が始まった平安末期、治承四年(1180年)のことです。

この年の八月十七日(旧暦、以下同)に源頼朝が配流されていた伊豆国北条で平家打倒を目指して挙兵しました。平家物語「早馬」の段には、東国で起こった頼朝の反乱を京都の平家に告げる急報の中に、

「其後畠山五百余騎で御方をつかまつる。三浦大介義明が子供三百余騎で源氏方をして、湯井・小坪の浦で戦ふに、畠山いくさにまけて武蔵国へひきしりぞく」(岩波文庫「平家物語(二)」)

とあります。「湯井」とあるのは鎌倉の由比ヶ浜を指す当て字でしょう。由比ヶ浜から小坪にかけた一帯は、平家方の畠山と源氏方の三浦が激しく戦った古戦場でもあったのです。

© 佐野絵里子(Sano Eriko)

平家物語の類本である「源平盛衰記」では、戦記物らしいフィクションをふんだんに盛り込んだ「小坪坂の合戦」として、当時の合戦の模様をより詳しく描写しています。伊豆国で挙兵した頼朝軍は相模国に向かって進軍しますが、大庭景親率いる平家軍に行く手を阻まれ、石橋山で合戦に及び、頼朝軍は大敗を喫します。石橋山は小田原の西方で、西湘バイパスの石橋料金所先、国道135号線沿いに石橋山古戦場が残っています。

援軍に向かった三浦軍は折からの大雨で増水した丸子河(現在の酒匂川)を渡れずにいるうちに合戦が始まり、翌日には頼朝軍敗走の報を受け、やむなく三浦半島の領地へ戻る途中、平家方の援軍に駆けつけてきた武蔵国秩父党の畠山軍と遭遇します。

畠山軍の大将は当年十七歳の次郎重忠で、父重能は平家の被官として京都で大番役(市中警護を行う輪番制の勤め)に当たっていました。目の前を敵方が行き過ぎるのを黙って見過ごしたら平家からどんな咎めを受けるか知れないと考えた重忠は、三浦軍を追尾し、とうとう由比ヶ浜で追いついたという訳です。

由比ヶ浜の東端は高い崖が海まで迫って行く手を阻みます。現在の光明寺の裏手から鎌倉一中の横を通って丘を越える坂を当時は小坪坂と言ったようです。追われた三浦軍はいったん小坪坂を駆け上がったものの、畠山方から「敵に背中を見せるとは卑怯なり」と難じられ、引き返して合戦に応じたとされます。

小坪坂は現在、光明寺坂として鎌倉の材木座から小坪6丁目の光明寺団地を経て、名越トンネルと小坪漁港を結ぶ県道に抜けていますが、鎌倉時代は坂の頂上から海寄りに折れて坂を下り、現在のバス通りに合流し、姥子台バス停、小坪バス停を通って披露山へ向かう道だったようです。