小坪は鎌倉の南境だった

鶴岡八幡宮の長い石段を登り切って振り返れば、若宮大路が由比ヶ浜に向かって一直線に伸びる鎌倉の中心街を一望できます。この景観を見た人なら、鶴岡八幡宮は鎌倉の北端で、若宮大路が相模湾に出会う滑川交差点が南端と思うのも無理はありません。ところが鎌倉時代の人たちは、都市鎌倉の境界について今とは少し違った認識を抱いていたようです。

吾妻鏡の元仁元年(1224年)十二月二十六日条に「このところ疫病が流行していた。武州(北条泰時)は特に驚かれていたところ、四角四境(しかくしきょう)・鬼気祭(ききのまつり)を行って(疫病を)退けるべきであると、陰陽権助(安倍)国道が申してこれを行った。その四境とは、東は六浦、南は小壺、西は稲村、北は山内という」とあります(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡 9」より引用)。

四角四境・鬼気祭とは、平安京で行われていた陰陽道の祭祀で、疫神などが京中へ入るのを防ぐために東西南北の国境で行われていたものです。元仁元年はすでに源家将軍は世を去り、京の摂関家より九条頼経(当時は元服前の三寅)が四代将軍に迎えられ、鎌倉下向時には陰陽師を同道させていましたから、こうした京風の行事も盛んになっていたのでしょう。そして当時の人は、鎌倉の南境は由比ヶ浜ではなく小壺(小坪)だと認識していたことが分かります。

この翌年、執権北条泰時は将軍御所を大倉から自身の住む若宮小町邸に隣接した宇津宮辻子に移転させます。新御所で当年八歳だった三寅が元服して、正式な鎌倉将軍に任命されました。頼朝が建立し、頼家、実朝が住んだ大蔵御所は現在の雪ノ下三丁目、清泉小学校あたりにありました。ここから当時は横大路と呼ばれていた金沢街道を鶴岡八幡宮に向かって西に進めば、筋替橋で道は左に折れます。この道を真っ直ぐ南に向かうのが小町大路で、左手に宝戒寺、道をはさんだ向かいが若宮小町邸、その右隣に宇津宮御所があったとされます。現在は住宅地に囲まれた一角に、御所の跡を偲ばせる小さな宇津宮稲荷があります。筋替橋の西面は幕府政所があり、宝戒寺は初代執権北条義時の小町御亭だったとされます。

こうしてみると北条氏が幕府の実権を握った時代、小町大路の北端は鎌倉政権の中枢部だったことが分かります。そしてここから真っ直ぐ小町大路を南に下ると、夷堂橋から大町四ツ角の一帯は商人や職人たちが商売を行う町屋がひしめき合っていました。鎌倉の人口が増え続け、治安や規律の乱れが目に余るようになり幕府は商人の活動を「大町、小町、米町、亀ケ谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛(化粧)坂山上」の七個所に制限する禁令を出します(建長三年、1251年)。大町は大町四ツ角の北側、小町は夷堂橋の北側、米町は下馬四ツ角の東北と想定されますから、七個所中三個所までは小町大路に隣接していたことになります。

政治の中心地から庶民の集まる商業地を通り、さらに進んで横須賀線の踏切を過ぎた右手には頼朝の先祖が建立した初代の鶴岡八幡宮(現在は元八幡)があります。かつての由比ヶ浜は海岸線が現在よりも内陸側に切れ込んでいたといいますから、小町大路を南下しても正面に海が現れて行き止まりになった、という感覚ではなかったはずです。道なりに進むと、現在の九品寺あたりでいつの間にか右手の林の向こうに海が見えてきた、といったところでしょうか。そしてついに小町大路は飯島崎に行き着きます。ここはかつて鷺の沼と呼ばれていた小坪村の西端です。

現在では観光名所である鶴岡八幡宮を起点とした若宮大路が鎌倉のメインストリートと考えられていますが、鎌倉時代の人々にとっては宇津宮御所を起点として政治経済の中心地を南北に貫く小町大路がメインストリート。ですから、鎌倉の南境を小壺だと考えるのは、ごく自然な感覚だったのです。

現存する日本最古の築港、和賀江嶋が飯島崎に造られたのも、小町大路の終端地だったからに違いありません。遠浅の海である由比浦は大型船の着岸できる場所はなく、大風や波浪で難破する船が多かったといいます。そこで貞永元年(1232年)、勧進聖の往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)が三代執権北条泰時の援助を受け、相模川や酒匂川、伊豆半島などから運んだ石を積んで、荷下ろし可能な岸壁を築いたとされます。全国から運ばれた品々を将軍御所や大町四つ角周辺の商業地に運ぶには、和賀江嶋から小町大路を通るのが最短距離ですから、人工港の最適地は飯島崎だったのです。

海の玄関口となった和賀江嶋は、ますます多くの人や物資を鎌倉に呼び込みます。この活況に目を付けたのが、伊勢国の商人でした。幕府創建の頃は六十戸ほどの集落だった小坪は、伊勢や志摩から漁師が多く移住したことで漁村として発展していきます。小坪浦は海のすぐ近くまで山が迫って人家を建てる場所は多くありませんが、ここに4つの町があって、それぞれに鎮守社があるのは、移住者の出身地ごとに町をつくったからだそうです。四つの町と鎮守社とは、中里(子の神社)、伊勢町(八幡宮)、西町(神明社)、南町(諏訪神社)です。伊勢町にいたっては、町名そのものが伊勢国との結びつきを示していますね。他にも亀大神や龍王社など、伊勢志摩地方と共通する神社が小坪にあることも、彼の地の末裔がここに移り住んだ証といわれています。毎年7月に行われる須賀神社天王祭では、四つの町(および、その後にできた二町を加えた六町)の山車が賑やかな笛太鼓の音を響かせて小坪中を練り歩きます。

どうして伊勢志摩の漁師が移住してきたのか定かなことは分かりませんが、源頼朝は十二歳で伊豆に配流されるときに霊夢を見て以来、伊勢神宮には特別な信仰を持っていたといい、元暦元年(1184年)には関東の所領二個所を伊勢神宮に寄進しています。相模武士である波多野氏の一族が志摩国に移り住んで、源氏のために平家と戦って勲功を上げているほか、承久の乱で京方に味方した多くの公家、武士の所領が幕府方の恩賞に供され、北条時房は伊勢国だけでも十六個所を拝領しました。こうした鎌倉幕府と伊勢の浅からぬ関係のなかで、伊勢国と小坪の縁起が生まれたのではないでしょうか。